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歴史を直視したら韓国人のアイデンティティは崩壊してしまう

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韓国併合

韓国では日本が韓国を併合してから終戦までの35年間を「日帝三十六年」と呼び、その間に朝鮮から7つのものを奪ったとしている。
そのため韓国の近代化が遅れたと言っているが本当はどうなのだろうか。

(資源、国王、主権、人命、土地、姓氏、国語)など7つを奪ったとされこれを「日帝の7奪」と呼んでいます。
統治したのは35年間ですが、韓国の人々は、これをなぜか「日帝36年」といって、いまだに根にもっています。

「近代産業は日本統治以前に芽生えていたから、日本の力がなくても自力で近代化が出来た。
だから日本による三十六年の支配さえなければ韓国の近代化はもっと進んでいたと教育を受けている。

では日本に併合される前の韓国の社会情勢ははどんなものだったのだろうか。
その当時を記した画像があるので見てみよう。
当時は韓国になる前の時代で李氏朝鮮と呼ばれていました。


歴史を直視したら韓国人のアイデンティティは崩壊してしまう

1888年 李氏朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)南大門大通り
韓国併合

李氏朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)には道路すらろくにありませんでした。
漢城の土地はすべて国有地であったため、平民が許可を得て土地を借り、建物を建設するには長い年月を必要としました。

そのため、路上の不法占拠が当たり前となり、無許可の建物が林立して道幅はどんどん狭くなっていった。

韓国併合

庶民の暮らし

併合前、漢城市内の庶民の暮らし

皆揃ったように白色服を着ていますが当時流行っていたからではありません。
染料が高価で貴族(両班)以外着ることが出来ませんでした。
また染色技術が発達していなかったため人々の服には色がなく皆白い服を着るしかなかったのです。

貴族でさえ色のついた服は必要な時にはお金を払い中国から購入するしかなく普段は白い服で過ごしていました。

「チャングムの誓い」などに代表される韓国の時代劇を見ると、見事な建築文化にあふれた建物の中できらびやかな色彩に彩られた服に身をまとい活躍する人物たちが描かれていますが、それは「チャングムのまやかし」というということになってしまいます。

コラム


日本では古事記に「其れ果たして如何なる染料を用いて染めしや」と書かれていてすでに染め物が登場しています。
平安時代の中期に十二単(じゅうにひとえ)が完成し、あでやかな染色技術が確立されていた。

また、曲げ物をつくる技術がないため木を曲げることができないため車輪もなく樽もありませんでした。
針は衣類に穴が開くくらいの粗雑なものでしかなく、中国から買ってきていたという。

韓国併合

車輪がない

併合前の韓国は全ての技術の発展ががない停滞した時代であり、1910年のインドよりも朝鮮半島は貧しく、併合前の大韓帝国は東アジアの最貧国だったと言われています。
また、銀行もなく通貨が無いため必要な物を手に入れるには物々交換で行われていました。

にわかに信じられない事と思われますが、英国の旅行家であるイザベラ・バードが1894年から3年間で4度、朝鮮を訪問し、その記録を綴った著書に「朝鮮紀行 があります。

日本が清に戦争で勝ち独立させたのが1894年で、併合したのが1910年ですからその間に朝鮮を訪れた時の紀行です。
当時の朝鮮の風俗、社会、政治情勢などを知ることのできる歴史的資料となっている。

イザベラバードが見たソウル城内

都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は立てられず、したがって推定25万人の住民はおもに迷路のような横道の「地べた」で暮らしている。・・・
土ぼこりにまみれた半裸の子どもたち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げ回ったり、ひなたでまばたきしたりしている。

両班(支配階級者)は働くのが大嫌いだった

韓国併合

両班の日常

朝鮮の技術水準は何故こんなに停滞してしまったのでしょうか。
その原因は両班(ヤンバン)という支配者階級の存在に原因の一端があります。
両班は、国家と民衆を食い物にしていました。

両班は大地主であり宮廷の高官だったが、伝統的に身体を使うことを嫌い、むしろそれを恥としてきた。
労働などというものは卑しい身分の者のすることだからとんでもないということで少しも働こうとしない。

四書五経を読み、儒教の祭りをし、宮廷での行事に毎日を過ごしていました。

両班は、金がなくなると、使者を送って商人や農民を捕えさせ、その者が手際よく穀物をだせば釈放されるが、出さない場合は、両班の家に連行されて投獄され、食物もあたえられず、両班が要求する穀物を支払うまで鞭打ち取り立てていました。

そのため農民は小作料として穀物を差し出すと、農民は次の収穫まで食べるのがやっとで、食べ物が無くなると野草を食い、木の根を噛んで命をつなぐような状態でした。
中には餓死者も出たでしょうが、両班にとっては知らぬことです。農民は奴隷と同じだからです。

国家予算の半分が宮廷費用だったぐらいだから、産業に必要なインフラ整備も行われない。
そのため人間が通れる安全な道路もなく、殆どの河川には橋がありませんでした。

国を豊かにするなんて考えは全くありません。両班はとにかく働かないのですから。
そのため社会の基盤が有史以来殆ど変わることなく古代の貴族社会がそのまま500年継続していたに近い。

にもかかわらず、韓国の教科書では「発達した中世」と書いてあるという。

働かなくても食べていける両班を解体してしまったのだからこれは相当な恨みを買ってしまった。

最初に反日感情を煽り、徹底的な反日教育を行ったのは初代大統領になった「李承晩」である。
「李承晩」は全州李氏の両班の家に生まれていて元は両班の身分であった。

日本が韓国を併合したのはいいけれど

当時の世界情勢は強い国が弱い国を植民地化するというのが当たり前で、正に弱肉強食の時代であり、日本も常に国家存亡の危機を痛感していました。

この頃東アジアで植民地になっていないのはタイと日本だけで他の国はイギリス、フランスやオランダなどの西洋列強に皆植民地にされていました。

朝鮮は清(今の中国)の属国となっていましたが日清戦争に日本が勝利したため清から独立させ「大韓帝国」となります。

特に日本にとって最大の脅威はロシアでした。
満州に権益を得た帝政ロシアが勢力を南下させる動きを見せていて朝鮮半島を狙っていたからです。

ロシアにに朝鮮半島まで収められてしまうと日本への侵略も時間の問題ということになるので朝鮮半島は絶対に死守する必要があったのです。

日本としてはロシアに侵略されないように韓国に近代国家としての国力を何とかつけて欲しかったのですが、大韓帝国と名前が変わってもそんな気概はさっぱり見られませんでした。

「こりゃだめだ!」と思った日本は「自力では無理」と判断し、併合することにしました。

併合したまではよかったのですがそこからが大変でした
労働を知らない彼らに労働の価値や意義から教えなければならなかったからです。

ここから日本の苦難が始まります。

コラム

日本が韓国併合の意思を各国に打診したところ、アメリカとイギリスは、このまま韓国を放置することは地域に混乱与えると考え、韓国併合に賛成し、これに反対する国は一国もなかった。
また韓国側も併合を望み、両政府合意の元日本は韓国を併合することになった。

頼まれもしないのに韓国を近代国家にするために日本がおこなったこと。

100校しかなかった學校を5000校にも増やしてしまった

韓国併合

韓国を併合した当時は100校にも満たなかった学校を30年かけて5000校以上にも増やしてしまった。

その結果、韓国は併合前、総人口の10%しかなかった就学率が昭和18年には60%にまで達している。

日本統治以前の李氏朝鮮において、教育を受けられたのは「両班」といわれる支配階級の子弟だけだっため、識字率も10%以下しかなかった。

頼まれてもいないのに教育制度を導入し、外で自由に遊んでいたかったかもしれない子供たちの自由を奪ってしまった。

子供たちにはありがた迷惑だったのではないだろうか、そのため恨まれているのでしょうか。

コラム


日本において江戸時代の庶民の識字率は世界でもトップレベルを誇っていたと言われています。
その秘密は寺子屋の普及にありました。
「寺子屋」とは、安土桃山時代の末期から江戸時代において、庶民の子弟に「読み」「書き」「そろばん」もしくは簡単な計算法などを教えるために僧侶や浪人が開いた庶民の学校です。
月謝はなく、入学金も特に決まっておらず、菓子折りや野菜を納める家庭もあったそうで家庭の経済状態によって融通をきかせてくれたのです。
ですから身分にかかわらず誰でも寺子屋に通えたのです。
幕末には全国で1万6千件以上の寺子屋があり就学率は70~86%に達していた。
江戸時代のわが国においては、世界で類を見ないほどに教育がいきとどき、識字率においては、ダントツに世界一だったと考えられます。

ハゲ山だらけだった土地を緑豊かな土地にしてしまった

併合前に統治をしていた李王朝が財政が破綻したため農民に森を開放し、好きなように伐採させ、土地の使用料を徴収する政策を取りました。

しかし計画的な植林などの計画は毛頭なく金が入ればよかったようで、山が荒れようが、災害が起ころうが知ったことではなかったのです。
国土の保全などどうでもよかったようです。

ちょっと雨が降れば大洪水が起こり、多くの命が失われました。
そのため日本政府は地産事業として植林を行うことを決定しました。

造林事業は1911年には、1152万本だった森林がが1922年までの累計は個人の造林事業などを含めるとおよそ10億本に至ったと報告されています。

韓国人はハゲ山が好きだったのかもしれないのに、頼まれもしないのに緑にしてしまった。

日本は勝手になんてことをしてしまったのだろう

両班を廃止して奴隷制度をなくしてしてしまった

日本は朝鮮半島の統治をはじめると、李氏朝鮮の最上位階級であり働くことが大嫌いな両班を廃止しました。

朝鮮の階級制度は、最上位に特権階級である両班、その下に普通の人である中人、その下に常人(小作人)、その下に賤民(奴婢、白丁)がいる形となっていました。
賤民は奴隷階級であり、品物のように売買・略奪・相続・譲与・担保の対象となっていました。
常人にも人権はありませんでした。

働かなくても食べていけていたのに日本の統治のおかげで、その特権がはく奪されてしまった両班にとっては不快この上なかったでしょう。

働かなくても食べて生けるとゆう支配者階級になんてことをしてしまったのだろう。
これは両班には恨まれる。

コメの収穫量を3倍にしてしまった

併合前の朝鮮稲作は非常に遅れていた。
特に灌漑施設が不十分で、殆ど雨水だのみの状態だった。

李朝時代の朝鮮では、3 月から 6 月までが食糧が不足する飢餓の時期に当たり、この季節を迎えると総人口の 6 割が山野で草根樹皮 を採取して生命をつなぐ状態であった。

さらに、両班にむしばまれ、小作農は大 なり小なり慢性的な食糧難と借金苦にあえいでいました
干上がった土地を潤すには水利事業が必要でありそのため、米増殖計画を日本政府が立てて大規模灌漑施設の工事を進めたことにより、米の収穫量が3倍増になった。

ハングル文字を普及させてしまった

韓国

15世紀に李氏朝鮮四代国王である世宗がハングルをつくりましたが、漢字を権威として使っていた両班の抵抗で普及しませんでした。
清国の属国であった朝鮮では長らく漢字が重んじられ、朝鮮オリジナルの言葉が失われていました。

難解な漢字ばかりなため、文字が庶民に普及せず、識字率が極めて低かったため朝鮮半島に産業・商業が育たない原因となっていました。
そこで日本政府は漢字という一部の特権階級しか理解できなかった文字から庶民が学び安いハングル文字を普及させた。

朝鮮語を必修科目としてハングルを学ぶことになり、識字率も併合時の 10% から 飛躍的に伸びました。

文字なんか読みたくなかったかもしれないのに、 これも恨みの対象でしょうか。

乳出しチマチョゴリを止めさせてしまった

韓国併合

18 世紀以降、朝鮮の女性向け民族衣装「チマチョゴリ」に変化が起きました。

この頃から「長男を生んだ女性は乳房を露出する」ことが習慣化したのだ。
「乳出しチョ ゴリ」である。 当時の朝鮮の男尊女卑的な思想では「長男を生まない女性に価値はない」との考えが支配的なためかこのような風習が広まったのだ。

当時の朝鮮 の女性はこの衣装を「長男を生んで社会的義務を果たした」として誇りに思っていたのである。

勝手にこんな風習を辞めさせるなんて、日本はなんてことをしてしまったんだろう!!
これは日本の戦犯リストの一番目に乗せるべき政策だ。

頼まれもしないのに日本が行った事まとめ

頼まれもしないのに

  • 人口の30%を占めてた奴隷を解放して幼児を含む奴隷の売買を禁止してしまった。
  • 会社が作られるようになって「物々交換」から「貨幣経済」に転換させてしまった。
  • 3800キロ鉄道が引かれて、港が造られて、電気を引いてしまった。
  • ビルを建て病院を作り銀行を作ってしまった。
  • 道路を作り上下水道を整備し家屋内にトイレを作ってしまった。
  • 戸籍を作り名前のなかった女性に名前を付けてしまった。
  • 平均寿命が24歳 だったのを56歳までに伸ばしてしまった
  • 韓国の人口は日韓併合の36年間で倍増にしてしまった。
  • 日本企業による約170の大工場が主要都市の周辺で新規に稼働し、韓国人数十万人を含む新たな雇用を生み出してしまった。
  • 日韓併合以降、日本は韓国に現在の価値で60兆円もつぎ込んで行政の整備、インフラ投資・農業や教育の振興などを行ってしまった。
  • 気がついたらいつの間にか朝鮮半島の民は極貧の状態から大きく改善し、経済発展をしていた。

併合後のソウル市内

日本は年国家予算の10%から15%をつぎ込み朝鮮の近代化をすすめました。

日本は韓国を植民地にしたと言ってますが、植民地というのはあくまでも富の搾取が目的です。
日本は、朝鮮を植民地ではなく、拡大された日本の一部と考えていたから、莫大な投資を惜しまなかった。
ですからやはり植民地ではなく併合だったのです。

遅れていた朝鮮半島に近代国家としての基盤を作ったのですが、しかし、「日程の36年」としていまだに恨まれています。
それはきっと、頼まれてもいないのに勝手に良かれと思ってやってしまったのがいけなかったのでしょうか。

しかし、同じようなことをしたのに台湾の人は感謝して、大の親日国になっています。

良かれと思ってするにしても相手を見てしなければ後で痛い思いをするという教訓を学ぶことになりました。

「約束は無効と覚悟せよ」

慶應義塾大学の創立者で明治の傑出した知識人、福澤諭吉は当時すでに韓国人の気質を見抜いていた。
福沢諭吉は朝鮮の青年を日本に留学もさせていた、しかし彼らは慶応義塾の金庫を壊して金を盗み、遊興にふけった。諭吉は「支那朝鮮に特別の会釈に及ばず」と、失望感を隠さなかったが、平気で恩をあだで返す彼らの習性に多くの日本人は気づかなかった。
福沢は当初は中国や朝鮮と連帯する可能性を模索していた思想を持っていたがしかし、福沢の希望はことごとく裏切られこう述べている。

「左(さ)れば斯る国人に対して如何なる約束を結ぶも、背信違約は彼等の持前(もちまえ=本来の性質)にして毫(ごう=ほんの少し)も意に介することなし。
(略)朝鮮人を相手の約束ならば最初より無効のものと覚悟して、事実上に自ら実を収むるの外なきのみ」

背信違約こそが、朝鮮半島の人々の特徴であり、約束が約束として機能しないというのだ。
中国と朝鮮は日本にとっての悪友であり、悪友とは距離を置いて付き合えと述べている。

さすが明治の傑出した偉人である。現在の隣国との関係を看破していた。

日韓併合時代、1942年 新興工業都市、興南

韓国併合

日本人と朝鮮人が供にに協力しあいながら働いていた

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